寄常ちゃんのお仕事⑦
旅館の女将かのように襖を静かに開け「失礼します」と小声で言ってから滑り込むと、中にいた座布団に正座している中年の男と目が合った。下ぶくれ気味の大きな顔に開襟シャツをパツパツとさせたガタイのいい人物だ。もともと筋肉だったものが脂肪に代わったような体つきだと寄常は思った。
「こ、こ、こんにちは」
どもりながらもなんとか挨拶をすると、男は意外と温和な笑顔を向けて「あぁ、こんにちは」と返してきた。どうやら人間であれば会話が許されるようだ。
「君はここに住んでいる人かい?昨日からお邪魔しているのだけど、留守のようだったから勝手だけど上がらせてもらったよ」下がり眉で言う男は寄常の方に体を向けてニコニコとしている。寄常の耳元では「もう3週間もここにおる。霊の中には時間の認識がズレている輩もいる。適当に話を合わせておけ」と小声で言っていた。
「僕はねここに住んでいた人を探しているんだ」寄常の肩にいる狐の存在には気づいていないらしい。男はどこから取り出したのか湯飲みにたっぷり注がれているお茶をすすった。卓のどこにも急須らしきものはない。
この霊は相手が妖怪でも話しかけさえしなければ認識できず、見えないのかもしれない。もしここで寄常が狐と話をしてしまうと途端に狐は男に認識されてこの部屋を叩き出されるだろう。
「人探しですか」
「ここに小さな女の子がいたんだ。そう、名前は確か……キミ」
部屋の外から「ひぇ!?」という声がした。寄常にはっきり聞こえるほどの大きな声だったが男には不思議と聞こえていないらしい。キミの容姿の可愛らしさやキミとの思い出話を楽しそうに話している。思い出話が本当かどうかは確かめようがないが、容姿に関しては廊下で待機しているキミと相違ないように思える。
「あー、んん……少々お待ちください」
寄常は男から目を離さず後ろ向きに退出をした。まだまだ続いていたキミと男の過去の話を遮る形になったが、男は穏やかに「おや、お茶でも出してくれるのかな」と自前のお茶を再びすすり、寄常を見送った。
「キミ、ご指名よ」
「え……座敷童に死んだ後で用事がある悪霊って誰かしら?怖いわ……」
しゃがみ込んで口を両手で押さえていたキミにどういう人物だったか伝えるが、心当たりがない様子。どうにも思い出せなくて何度も首をかしげている。
「優しそうな顔してたけど、アレ、悪霊なんだよね」
あの穏やかな男が悪霊だとは信じがたかった。幽霊であることすら疑わしいほどくっきりと見える。狐が言うには「姿かたちがはっきり見える幽霊ほど、強い意志がある」ということだった。その”強い意志”がこの世への未練だとすると充分に悪霊になりえるらしい。
「一度顔だけでも見てみようかしら。話ができそうならそれで……」
確信の持てない提案。それでも彼の口からキミの名前が出てしまったからにはそれが解決への近道であることには違いなかった。
ところどころシミができている障子戸の隙間から意を決したキミがそっと顔を出した。
ぐるん。部屋の外でどれだけ声を出しても全く聞こえていない様子で虚空から出したお茶菓子を食べていた男が可動範囲を超えるほどに首を捻ってこちらを見た。生きている人間ではないことを意識せざるを得ない光景だった。
「キミ、キミちゃん?」
男は目を丸くして腰を上げた。つい先ほどまでその手に持っていた湯飲みや茶菓子は消えている。キミは半分部屋に入れ込んでいた身体をひっこめた。この部屋に何らかの境界があるのは寄常にも分かった。男はこの部屋の外のことを感知できない。部屋の外に出れば害はない。
「うわ、この人、昔近所に住んでた変なおじさんだわ」キミは思い出した。人間だった頃、何かとキミに付きまとう大人が確かにいた。
しかし男はその境界を越えてきた。あっという間に目の前に移動してきていた。寄常と話していた穏やかな表情とは全く違うニタニタとした笑みを浮かべている。
「変なおじさんだなんて酷いなぁ。あんなに楽しくお話してたじゃないか」
ねっとりした話し方。キミは嫌でも思い出す。母の顔、祖母の手、親戚どもの脚、納戸の床、鉄格子。
「そんなことしてないわ。あなたがしたのは私を……」
そこでキミは言葉を止めた。男が何をしたのかは寄常には分からないが、きっとキミの人生にとって大きな事だったのだろう。やがてキミは静かに告げた。
「私、あなたが嫌いな妖怪なのよ」
は、と男は小さく口を開けて息を吸った。その隙を埋めるかのようにキミは畳みかける。
「座敷童なのよ。みんな願ったでしょう?妖怪だったら他人と違っても納得できるって!私を産んでしまった母様を!みんなで!」
屋敷のどこかで何かが割れる音がする。
「妖怪……何故、何故?」
しかしキミの悲痛な訴えの内容は男には届いていないようだった。ただひたすらキミが妖怪になっていたことが信じられないという様子で「何故」を繰り返している。
「キミちゃんが妖怪?そんなこと許さない……許さない!」
「危ない!離れろ!」
狐が叫んだ。窓硝子がはじけ飛ぶ。幸いにして寄常やキミに刺さることはなかったが破片が部屋中に散っていた。
「妖怪は許さない」生きている間で一度でも聞くことはないだろう、そんな妙ちくりんな音声で男は言った。先ほどまで笑っていたシワの入った目は、穴が開いたように真っ黒で深い。力なく開いた口からはもう呪詛のようなものしか出てこない。まさに悪霊だ。
「これはいかんな」今までだんまりを決めていた狐がつぶやいた。
「キツネ。少し我慢してくれ」
「は?」
ドン。ドコドコ
屋敷が揺れる。板張りの廊下が鳴る。電球の灯りは消えて薄暗くなった。いや、部屋の外から太陽の光が入ってきているはずなのにあまりにも暗い。
「妖怪が嫌いなのにこの屋敷に来たのかい?」
野太い音でしゃべりだしたのは玄関にあった大きな壺。苔のような模様だと思っていたそれは今や人の顔が浮かび上がり、天狗のように突き出した鼻を鳴らしている。
「だったらここから出ていかなきゃあな…」
バサバサと近づいてきたのは階段下の棚に収められていた古い本。毛羽立っていた表紙はそのまま翼となり全ての頁には恐ろしい表情の鬼が舞っている。
台所から、二階から、先ほどまでいた部屋から、ぞろぞろと、屋敷が呼び込んだ付喪神たちが男を囲んだ。
「なんだ……なんだよ。お前さっきまで人間だったじゃないか…」
男が寄常を見て、かすれた音を出す。
寄常の体も常世に歪んでいた。光を放つような真っ白な肌に赤く映える隈取。狐のように鋭く伸びた鼻面。茜の羽織は炎のようにバチバチと音を立てて揺らめく。
「ここには妖異の者しかおらぬ……おぬしもまたそのひとり」
狐顔の大きく裂けた口が地獄の底の怪鳥ような声を上げた。
「それが受け入れられなければ立ち去れ!!」
羽織った炎が渦を巻き火柱を立てた。
妖怪に囲まれた男は圧倒的な恐怖に声を上げることも叶わず限界以上に顔を引き攣らせ、そのままどこかへと姿を消した。
後に残るは静寂のみ。廊下の灯りは復旧し、壺も本も他のモノたちも物言わぬ物質へと帰っていった。
「つきまといする者にはハッキリ言ってやらんとなぁ」
何が何やらと腰を抜かして座り込んだ元の姿の寄常の手元で、したり顔の小さな狐が頭をカクカクと揺らしていた。
「これで依頼終了かな」
ゴミ回収業者の車を見送った寄常はスッキリした庭を見渡した。
膝程に伸びた草をむしり、生け垣に絡まったゴミを取り除き、ほとんど何もない状態だ。
不法投棄があったのは本当の事らしく、付喪神ではないただの粗大ごみも多数あった。その処理もキイチに連絡して要不要の確認をしてから、役場に届け出ればすぐに終わるだろう。たった今、連絡の管狐を送ったところだ。
結局、屋敷のいたるところにいた付喪神たちは村民の家の納屋で眠っていたモノだったらしい。翌朝になると屋敷からすっかりいなくなっていた。
屋敷が彼らを呼び集めたのは最初の数体だけで、後は悪霊をどうにかするためにと好意で集まってくれていたようだ。「と、屋敷が言っている」狐がそう言っていた。
霊の問題の解決には対話が必要。しかし狐や他の付喪神では会話が成立しなかった。寄常という人間が屋敷に来たことで、やっと行動を起こすことができたという訳だ。
寄常がリンドウへ戻る準備をしながら昨日の状況を整理し納得していると腰元から声をかけられた。キミの頭上に乗った狐だ。
「掃除業を続けるというのであればワタシを連れて行きなさい」
「なんで?」
「寄常は平常も寄せるが常世のモノも寄せる。名は体を表す。ワタシたちと関わることになったのもそういうことだからだ」
よくわからない。何を寄せるだって?
「幽霊が見えないのに、幽霊が勝手に付いてくるということよ。あと妖怪ともお近づきになれるかもしれないわね、ってこと」キミが柔らかく翻訳してくれた。
しかし寄常は再びああいった悪霊と対峙しなければならないなんてまっぴら御免だし、自分が妖怪みたいになるのも勘弁こうむりたい。
「幽霊はもうこりごりよ。好き勝手に体を乗っ取られるのも嫌」
「あれはただ化かしただけだ。幻覚を見せただけのこと」
狐はツ、と顔をそらして澄ました表情をした。人形だというのにコロコロと表情を変える狐が憎らしい。その下でキミがフフと笑う。
「悪いことは言わないわ。ただ一緒にいるだけでいいのよ。これからも色々なヒトと出会うのならば、そこにはたくさんの妖異のモノも含まれるでしょう。その時、狐はきっと手助けをしてくれるのだから。ね」
キミは狐を頭から降ろし、寄常の前に差し出した。いつも以上に大人びた優しげな声を出す彼女の様子に、寄常は今度は素直に受け取った。
「うん。行ってらっしゃい」
キミは手を振り玄関先から動かなかった。狐を連れて行くのだから当然ついてくるものだと寄常は思っていた。
「私は座敷童だから、ここから出ちゃいけないの。今回はちょっと冒険をしただけよ。キツネについてはいけないわ」
キミは寂しそうに笑ったが、すぐに胸を張って言い放った。
「まぁ、キイチがここに引っ越して来るって言ってたし、気合を入れていびってやるわ!座敷童はいたずら好きなのよ!」
その満面の笑みがキミの本当の姿であり、今までの大人びた態度は屋敷以外の場所にいることで緊張していたのではないかと寄常は思った。
リンドウに帰った寄常はその数週間後、家の表ーお面屋の入り口脇に小さな看板を置いた。本格的に掃除を仕事とすることにしたのだ。従業員は1人だし、依頼もまだまだ学園から入るもののみ。しかしキイチの研究者仲間に名前が売れたらしい。依頼完了時に「入用の時は真っ先に連絡する」と言われると同時に「現地調査の掃除に付き合ってくれるというのは本当か」と聞かれた。
依頼申し込み書を送付して帰って来た管狐と、毎日家中を駆け回るだけの狐が金平糖の取り合いをしていた。
ーおわりー
寄常ちゃんのお仕事⑥
「え?」
屋敷の敷地内に一歩踏み入れた瞬間、寄常はまるで水の中に体を沈めるような心地がした。空気が冷たく濁っている感覚。あまり良い気分とは言えない。
「あの、ごめんなさい。私がここから離れたせいよね」
キミが屋敷の奥をじっと見つめて言った。座敷童は座敷童が住んでいる家、家庭を幸せにする良い妖怪とされている。しかしその家から座敷童がいなくなると火事で全焼するだとか崩壊するだとか、とにかく災いが起きるという話がある。キミがいない間に何かがこの屋敷で起きていた。見た目にはわからない。ただの古い屋敷だ。しかし中の様子を見てみないことには依頼を断る理由を作ることもできない。
寄常は恐る恐るあちこちに車輪や鍋・本棚などの粗大ごみが捨てられている庭を通り、玄関の引き戸を開けた。
「やっと帰ってきたか!」
誰もいないと思っていた寄常の心臓が飛び上がった。慌てて周囲を確認するが誰もいない。奥から出てくる気配もない。そこにあるのはキミなら余裕で入り込めそうなほど大きくてゴツゴツした壺と魔除けだろうか小さな狐の人形が置いてある。あとは奥に向かって点々と古めかしい骨董品などが無造作に転がっている。寄常は骨董に明るいわけではないが不法投棄するにはもったいないほどの逸品ぞろいに見えた。
「座敷童のクセに本について行ってどうする!この家が倒壊しなかっただけ良かったと思え!!」
近くからまた怒声が聞こえた。やはり座敷童が家から離れると良くないことが起きるという話は確かなようだ。厳しめに叱られたキミは管鈴と同じくらいの大きさの狐人形にごめんなさいと素直に謝った。よく見れば人形の口が開閉している。
「関係ない人間まで呼び込んで……すまないね、送り届けてもらって」
白や赤などの刺繍糸で作られた狐は、背筋の伸びた座り姿勢のまま小さな三角の頭を寄常に向けて礼を述べた。
「動くんだ……」
「ワタシは付喪神。古くなると魂を得る。100年やそこらの新参者ではないからね、動くくらい容易いことだよ」そう言って4本足で立ち上がった。胴と同じくらいの太さの尾が大きく揺れた。「大昔に住んでいたお婆さんが作った人形なのよ」キミが言った。
「おぬし、名前は」狐は首をかしげて見上げた。人形劇を彷彿とさせる動きだ。ぎこちないながらも生物なのだと思える生々しさ。
「ヒラサカキツネ。”どこかに寄る”の『寄』に”日常”の『常』」
「キツネとな。珍しい。良い名前だ」
狐は頭をカクカクと揺らし目を細めて笑った。しかしすぐに姿勢を正して真面目そうな表情に戻る。
「何が起きているの」
狐の雰囲気に何かを感じ取ったのかキミも真剣な表情をして本題に入った。
「いらんものが入りおった。悪霊だと思われる。キツネ、おぬし霊感はあるか」
悪霊。敷地内に入った途端に感じた淀んだ空気はその悪霊の妖気といったところか。
この国のほとんどの人は妖怪を見ることができる。しかし霊 ー 死んだ者の魂 ー はほとんどの人が見えない。妖怪と霊感を持つ極少数の人間は霊が見えるという。寄常は幽霊の類は見たことがなかった。
「ない、と思う」
「ふむ、仕方ない。ワタシを手に取りなさい。見えるようにはなるだろう」
知らぬ間に憑りつかれて悪霊になる、なんてことはなくなるはずだ。そう言って前足を寄常に差し出した。
「キミが居らぬようになってからこの家が、いろいろなモノ、ゴミだけじゃない、付喪神らもだ、それらを集め始めてな……あぁ、この家も100年をとうに過ぎておる立派な付喪神だ……それらと一緒にその悪霊もついてきたのだろう。奥の部屋にずっとおるよ。彼奴は何かを待っている」
寄常の指先から肩まで登り、くるくるとその場を回って座り心地の良い場所を見つけた狐は説明を続けている。その間に寄常には劇的な変化が訪れていた。粗大ごみと骨董品が点々と置かれているだけだと思っていた屋敷にはたくさんの動物霊がいた。狐に触れることで本当に霊を見ることができるようになったらしい。その動物霊の中で特に多いのはウサギ。確かに外で野ウサギが走っているのを見かけた。エンガのウサギはこの地方では有名らしく、麓の街の駅にも土産物としてウサギを模した根付けが売られていた。
輪郭がぼやけて形の不鮮明なウサギがすぐ足元で寝ていたことに驚いているとキミが「この村周辺で死んでしまった動物は座敷童、私ね、がいて安全なこの屋敷に集まってくるの」と教えてくれた。
「この子たちにも悪いことしちゃったわね……」
キミが小さな手でウサギの背中をなでた。今まで誰もいない屋敷にキミひとりで住んでいたのかと寄常は思っていたのだが、意外と賑やかに暮らしていたのかもしれない。ウサギたちと一緒に次に引っ越してくる人間を待ちながら。
「それで、その悪霊を除霊?する技とかあるの?」
胡散臭い除霊の話などはたまに耳にするが、それが本当に効果があるものだったとしても霊感のない寄常には再現できるはずもない。
「技などない。対話するだけだ。話を聞いて、問題があるようなら解決する。それしかない」
「話って……悪霊なんでしょ?大丈夫なの?」
そもそも言葉が通じるのか。意味不明の言語を投げつけられでもしたら混乱して逃げ出す自信がある。外国の観光客に道を説明するにもオタオタとするくらいだ。頼りなく渋い顔をしている寄常を見てキミが話を続けた。
「あなたはその悪霊とお話してくれなかったの?」
「うむ。妖怪の話など聞かぬと一蹴されてしまった。この国が妖怪と共存する体制を整えるのに時間がかかったのはこういう輩がいたからだな」
もう今生の人間でそのようなことをいう人はいないだろう。悪霊はかなり昔の時代の人間なのかもしれない。存在を認めず共存していなかった時期などもはや学院の教科書の隅に載っている程度だ。
「私が人間だった時代はみんなそんなものだったわ。それでも私を妖怪に仕立て上げるくらいには妖怪の存在を認識していたの。矛盾よね。自分たちと少しでも違うことろを他人に見つけると寄ってたかって叩くのよ」
人間だったキミが座敷童になった理由は何だろうか。寄常はなんとなく答えが分かったような気がした。キミはどこか周りの人とは違う部分があったのだろうー例えば他人より極端に身体の成長が遅いとかーそれを周囲の人間が”忌むべきものだ”として隔離し、尾ひれをつけた噂を言い伝えることでキミの存在を捻じ曲げた。人の言葉が座敷童を作り出したのだ。≪言霊≫という人間が使えるチカラだ。
「何にしてもここから彼奴を追い出さねばキミがここに留まることができぬ。今にも倒壊してしまうだろう。キツネ、ここではおぬしだけが彼奴と穏便に会話ができる状態だ。頼まれてくれ」
「言葉が通じるのであれば会話すること自体はいいけど、襲って来たりしない?」
「それは話してみないとわからない」
ためらいなくきっぱりと言われた。狐との話は「妖怪だから」という理由で断られたのだから、人間の寄常ならば上手くいくかもしれない。しかし寄常に対してどういう反応を示すか分からない。もしかしたら「生きている人間だからダメ」と言われる可能性もある。言われるだけならまだいいが、何がきっかけとなって凶暴化するか分からない。何しろ相手は悪霊だ。現世に強い恨みが残っているがゆえに死にながらも現世に害を与えるほどのチカラを持っている。
「ちゃんと守ってくれるんでしょうね?あたしには何のチカラもないんだからね」
「……む」
肯定でも否定でもない曖昧な返事だった。付喪神とはいえ人形を頼りにするのは間違っていたのだろうか。不安で仕方ない。
「座敷童の私がいるから万一のことには早々ならないだろうけど、一応悪霊の機嫌を損ねないように私は部屋の外にいるわね。頑張って!」
小さな両手をグッと握り込んで応援してくれるキミに背中を押されるように、悪霊がいるという部屋へと続く廊下を忍び足で進んだ。
寄常ちゃんのお仕事⑤
翌週、寄常は特急列車に乗って高山の村エンガに来ていた。
「これも、あれも返さなきゃいけないのよね」と次々と一覧表に載っている書籍を寄常に渡してきた座敷童は名前をキミというらしい。妖怪になる前の、親からもらった名前だ。
キミは本当に本を読むことが好きなようだ。トウジの部屋にいる理由も、もともと住んでいた現在は誰もいない屋敷の蔵書を読んでいたところに知らない男が家宅侵入 ーキミは”家宅侵入”を強調したー をし、キミごと本をセイランに持って帰ったからだとか。しかしトウジはその知らない男とは違う人物だと言った。トウジの部屋にあった書籍を片っ端から読んだが、自分の住んでいた村に繋がるようなことを研究しているようではないことが分かったからだそうだ。セイランに着いてから何らかの経緯でキミが憑いていた本をトウジが手にしたということになる。
「私、居眠りしていて気付かなかったの。本当よ?だから家までの帰り道も分からなくて」
いつか帰ることができる日を待ちながら暇つぶしに本を読んでいた、と図書館に向かう荷車の上で自分の憑いていた本を抱きしめているキミは言った。
一覧表に載っていた書籍はキミのおかげですぐに集まった。家中を埋め尽くす量の書籍のすべてを読みつくしたと豪語しているだけのことはある。実は部屋を荒らしていたのはキミではないのかと問うと今度は部屋の壁に沿うように積みあげられた一面の本が崩れた。
あと1時間で閉館する図書館で司書に書籍の過不足がないか確認をお願いすると、暫くかかると思うので館内でお待ちくださいと言われた。「数冊」と言われていたが、結局大きな荷車の半分を占める量になった。時間がかかるのは当然だ。
普段、雑誌以外に本を読まない寄常はどこで時間をつぶせばいいのか分からなかったが、受付の近くに”世界の地図”というコーナーが設けられているのを見つけた。そうだ、位置関係は分からなくても自分がいた村の名前くらいはわかるだろう。目を輝かせてキョロキョロしているわりには”待て”をされている犬のように律儀にその場を動かないキミの手を引いた。
「ほら、あんたがいた村ってどこ?今すぐには無理だけど行けそうな場所なら送るよ」
「ほんとうに?あの、エンガっていう村よ。一年の半分は雪で埋もれているくらい寒いの」
引っ張り出してきた大きな地図のまったく見当はずれの場所を見てキミがはしゃぐ。地図の見方はわからないらしい。その声に”書庫”という看板が立てられている扉から出てきた赤髪の男が近づいて来た。流石にうるさかったかと寄常はキミの頭を押さえつけ謝ると、そうじゃないと男は首を振った。
「エンガ村と聞こえてね。僕は今度そこへ引っ越すことになっているんだ」
話を聞くとどうやら彼は研究学院の卒業生で、後輩に貸した古い書籍がなかなか返って来ず、もしやと思い図書館に寄ったところだったそうだ。その古い書籍は引っ越し先であるエンガ村の古民家に置いてあったものだという。
翌日図書館は丸一日休館になった。地震もないのに図書館内の半分近くの本棚から書籍が飛び出したからだ。
列車は山の麓の街で終点となり、あとは徒歩しか手段がない。まだまだ暑い時期に長時間歩くなんてリンドウ育ちの寄常には考えられなかったが、北の山中にあるエンガ村は涼しく、物珍しい風景を楽しんでいる間に積み上げられた岩と丸太で作られた大きな門の前までついた。門の左右から延びる白樺製の壁は山を背に存在する村の前面を囲うように建っていてその奥には櫓がある。それらはすべて夜行性の妖怪から村人を守るための物なのだという。
寄常は先日の赤髪の男ーキイチから掃除の依頼をされた。現場は引っ越し先の古民家、キミの屋敷だ。キミが読み耽っていた書籍をキイチが持ち出した時点の屋敷は埃っぽいだけで特に問題は見受けられなかったのだが、次に訪れると物が増えている。それが何度も、大量に。しかし誰かが勝手に住み着いているという話はエンガ村の役場には上がっていないようだった。キミに「知ってた?」と聞くと首を横に振った。
土地や建物の所有権はすでにキイチのものとなっている。増え続ける大量の不要物を片付けてしまえばすぐに引っ越せるという段階になっていたらしい。座敷童付きの物件であると役場の方には伝わっていないようで、これにもキミは首を振った。
「すまない。まさか座敷童がついていたとは知らず、勝手に本を持ち出してしまった」キイチは小柄な体をさらに縮こまらせてキミに謝った。
「いいえ、姿を消したまま眠ってしまっていた私も不用心だったわ」とキミも流石にしょんぼりとしていた。
大の大人と就学前程の見た目の少女が互いにペコペコと頭を下げあう姿を思い出しながら寄常はまず役場に向かった。田舎特有の感覚で、その屋敷は管理されているとはとても言えない状態にあり、入り口に鍵もついていなかったところを不法投棄が続くためキイチが急遽南京錠で施錠し、その鍵を役場に預けてあるのだそうだ。
「ヤハシキイチさんからの依頼で」
山に埋め込まれているような形に設計された役場の入口正面にある受付で寄常がそれだけ言うと、職員であろう女性はハキハキとした大きめの声で「伺っております!ヒラサカ様ですね?」と屋敷の鍵と手描きの地図を渡してくれた。役場からさらに坂道を上り、瓦屋根の家を何件か過ぎた道の奥に分厚い茅葺屋根が乗っかった古い家があった。一体何十年、何百年経っている家なんだろうか。屋根の重みに耐えている木製の壁は風化しかけているような見た目になっている。伸び放題の垣根の周りをぐるりと歩くと隙間に太い鎖があるのを見つけた。これがキイチがつけたという南京錠だろう。貰った鍵を手探りで鍵穴に差し込み、ズシャ、と重い音を立てて解かれた鎖を敷地内に引きずりいれた。
寄常ちゃんのお仕事④
寄常はひとりでトウジの家に戻って来た。
ミチの呼吸は落ち着いたが、再びここで掃除を続けるのは無理だと判断した寄常は一度電車に乗って家まで送り届けることにした。両親と妹のミナコがそろって家の中で休日を過ごしている光景を見て気持ちにやっと余裕ができたのか、ごめんねと何度も泣きながら謝っているミチに別れを告げた。憔悴しているミチの様子に慌てて玄関に出てきたミチの母親に「掃除してたら狸に化かされてびっくりして過呼吸になった」と説明したが「遊びに行くと言って出かけたのにどこを掃除してたと言うんだ」と後から大きなお腹を揺らしながらのしのしと歩いてきた父親に聞かれたときはヒヤリとした。
ミチは家族にトウジと付き合っていることを内緒にしているのかもしれない。少なくとも父親には。
「今は安定していますが、またいつ呼吸が乱れるか分かりませんので精神的な安静を第一にしてください」と詮索しないよう制したが果たして守ってくれているのだろうか。
おばさんとミナコちゃんが止めてくれていればいいけれど。
ミチの容態は気になるが寄常は仕事としてこの部屋に来ている。また明日、と期日を延ばすわけにはいかないもどかしさを感じていた。
預かった合鍵で扉を開け、弁当殻撤去の続きを始めようと落ちていた袋に手をかけた。
「あら?帰って来たの?」
寝室には5歳くらいの女の子がいた。畳に正座した小さく丸い膝の上には分厚い本が開かれている。きっとこれがさっきの狸なのだろう。研究学院生から”化かしてくる狸は無視しておけばいい”と教わった寄常は寝室の弁当殻 ー少女の目の前にあるー から袋に詰め込んでいった。割り箸は燃えるゴミの袋に。
「さっきは驚かせてしまってごめんなさいね。お掃除に来るっていうから邪魔にならないように姿消してたんだけど、貴女たちあちこち移動するものだから逃げ回ってたら足音消すの忘れちゃってて。しかもそのまま声も出してしまうのだから。私ったら、本当にドジね」
物言いと静かな笑い方が幼い見た目にそぐわない。着物の袖で口元を隠す仕草のちぐはぐな様子がまるで近所に住んでいるナカノおば様のようだと思った。寄常の住んでいるリンドウの下町には上品な家などないい。しかしそのナカノ家の奥様は数年前に流行った物語の主人公である上流階級の女性を真似て静かな笑い方だけを習得した。見た目はいかにも騒がしい下町の中年女性だ。今朝も義務学院生の幼い長男を大声で叱り追いかけまわしている声を聞いた。
少女姿の狸は大小さまざまな菊の刺繍が施された赤い着物に藁を編んで作られた草履を履いている。黒くて長い絹のような髪。典型的な古い人形のような容姿をしている。大した変化の術だ。このような見た目の人形は寄常の家にも1体置いてある。祖母の部屋に置いてあるその人形は少し怖い。真っ黒な目と白い肌の造形があまりにも精巧すぎて魂が宿っているのではないかと思うほど。幼いころに今にも憑りつかれそうだと恐怖を覚えてから今でも祖母の部屋にはあまり入らない。
寄常が床に放置されていた弁当殻を詰めた袋とゴミ箱の中のものをまとめ終わっても狸はまだ一人でしゃべっていた。トウジの部屋は汚いが面白い本がたくさんあることや、弁当をつまみ食いしたがあまり美味しくなかったこと、そしてミチとトウジはあまり付き合うのに向いていないと思うといったことまで。
「よくしゃべる狸だな」
寄常は無視し続けることができなかった。寄常が絶対に言葉にしなかったことを言ったからだ。寄常自身もミチとトウジは合わないと思っていた。どうみても今のミチはトウジの更正施設だ。恋人を求めていたはずが不出来な子供を預かり育てているようなものだと寄常は怒りを感じていた。ミチの苦笑いじゃない本当の笑顔をこの8ヶ月の間一度も見ていない。高等学院を卒業してからも週に1度は必ずミチと顔を合わせる寄常でさえもだ。お茶会と称しては近況を報告しあう最後にいつも「ごめんね」というミチ。残念な男に引っかかってしまったことに気づこうとせずにトウジとの幸せを夢見る可哀そうなミチ。
ミチが選んだ人をミチの幸せを願う寄常は悪く言うことができなかった。ミチに嫌われたくないという寄常の我儘がミチを苦しめる結果になっていることにも寄常は気づいていたのに。
「まぁ!!貴女、私の事を”狸”だと思っていたの!?失礼にも程があるわ!!」
跳ねるように立ち上がった少女がガラス玉のような目をむいて叫んだ。
「人のこと化かしておいて、狸じゃないっていうなら何だっての!?ミチがあのままだったら病院送りになるところだったのよ!?」
「だからごめんなさいって謝ったじゃない!!」
積み上げられていた辞典のように分厚い本の塔が倒れ、埃が舞い上がった。恐らく少女のチカラなのだろう。ヒトにはないチカラが暴発した。妖怪は人間より余程チカラが強い者が多いため、おいそれと喧嘩はするなと子供のころに誰もが教わる。それなのに頭に血が上って妖怪と言い合いをしてしまうなんて。
「じゃあ、なんなのよアンタ」
寄常は目をそらした。窓の外ではもう太陽が沈む準備をしていた。羽織の袖の中に図書館への返却予定書籍の一覧表が入っているのを思い出した。今日の閉館時間には間に合わないかもしれない。弁当殻どころではない部屋中に広がる大量の本の中から目的のものを夕方までに見つけ出せるとは思えない。
「私は座敷童と呼ばれてるものよ。遠くの山にある家のね」
そう言って差し出された手には学院の印が押された本があった。
寄常ちゃんのお仕事③
寄常はマスクの中の唇を”への字”に結んだ。
居間は案の定、売店で売られている弁当の空容器が散乱していた。ミチが用意したという大きなポリバケツのゴミ箱が早々にいっぱいになってしまったのだろう。ゴミがあふれ出してそのまま雪崩が起きている。雪崩は留まることを知らず弁当殻で道ができ、その終着点は居間と隣接している寝室。
きっと最初はきちんとゴミ箱に捨てていたのだが、じきに溢れかえってくるゴミ箱を見てうんざりとして、近くまで行っては面倒くさくなってその場に放置するということを繰り返していたのだろう。
トトト
透けて見える生活感に苦笑いをしていると足音のようなものが聞こえた。寄常やミチのものではない。上階の住人が走ったのだろうか。この建物は比較的新しく建てられたようだが、学生寮になっているくらいだ、壁だけでなく床天井も薄いのかもしれない。
「換気したい」
ミチが呻くような声を出した。
徐々に嗅覚が麻痺してきているが酷い匂いであることに変わりはない。籠った空気を開放したいのは確かだ。
居間の窓に目をやると何故か本と衣類と空き缶で出来た小動物の巣のような塊で塞がれていた。
あれをどかすまではこの悪臭から解き放たれることはない。
都市の指定ゴミ袋と分別用のビニル袋を新しく広げて転がる缶に蹴躓きながら窓に近づいた。
「缶はこっちの袋ね」
青い文字で”燃えないゴミ”と印刷された袋を足元において、塊をほぐしていく。
上着の長い袖が袴の前紐と絡んでいて、後紐は一度栞のように分厚い本の間に挟まってその先は空き缶の中に突っ込まれている。
「トウジさんって袴とか履く人?」
外来の衣装とヤマシロの衣装を組み合わせて着るのが昨今の流行で、寄常もミチも羽織の下は柔らかい生地で作られている動きやすい”パンツスタイル”だ。同年代の女性の大半が愛読しているといっても過言ではない『月刊 美巴留(みはる)』には今月号にも羽織とパンツの組み合わせ特集が掲載されていた。
「履かないよぉ。見たでしょ?大量のシャツ。せめて襟付きのシャツなら袴とも合うだろうけど。前に先輩の結婚式に行くって言ってたから、そのときに着ていったんだと思う」
普段適当な恰好しかしてないのに正装一式とかはちゃんと持ってたりするの不思議よね、と笑ったミチは塊から発掘された缶をまとめて袋に押し込んだ。
しかし空き缶がやたら多い。物としては小さいが弁当よりよっぽど数が多い。そしてそのほとんどすべてが珈琲缶だ。
「あたし珈琲飲めないの。苦くて。砂糖とか入れても豆の苦みってやっぱりあるじゃない?文化祭の時も『げーっ』って思いながら出してたのよ。そのくらい苦手というか、嫌いなのよね」
たしかにあの時ミチは難しそうな表情をしていた。寄常は文化祭を思いおこした。
あの時は丁度、リンドウの下町に珍しく外国の雰囲気を前面に出した喫茶店が出来たばかりだった。その喫茶店に社会人の姉と一緒に行ってきた、感動した、と言う同級生の提案で「喫茶 壱組」の出店が決まった。比較的材料が調達しやすいパンケーキと珈琲を提供することになった。
トウジはその喫茶店の客として来た。友人の妹がこの高等学院の生徒らしく誘われて同行したのだが人込みで逸れてしまったと受付をしていたミチに恥ずかしそうに言ったらしい。
彼は珈琲だけを注文し少しずつすすりながら読書していた。
”コーヒー飲んでるときの顔が好きなのよねぇ…”
ミチがいつか言っていた、ただ1回の惚気。
正直寄常はトウジのどこに惚れる要素があったのか理解できなかった。研究学生をしているくらいだ、頭はいい。しかしそれだけで、他に好印象を与える部分を思い出すことができない。それはこの部屋を見ればお察しだ。少なくとも寄常にとっては”ナシ!”な男だった。
それでもミチを引き付けるのは自分が嫌いな珈琲を飲んでいる時の表情なのだという。
まったくもって寄常には理解ができなかった。
「でもあの時のパンケーキは最高に美味しかったと思うわ」
寄常は塊の最後の砦だった毛糸の上着に包まれていた空き缶を袋に投げ入れた。
やっと窓周りが片付き換気ができるようになった。
塊で圧迫されていた割にすんなりと開いた窓からは道路を挟んですぐ近くにある大き目の公園が見渡せた。
さして強くない風が今にも崩れそうな見た目の書籍の頁を1枚めくった。
ふたりはそれぞれの姿勢で伸びをした。中腰の姿勢を続けていたせいで体が悲鳴を上げている。
「ここのお弁当殻纏めたらお昼休憩するかぁ」
見た目は派手に散らかっているが、弁当さえ片づけ終われば残りは本と細かい掃除くらいだ。台所は料理をしないからか細かいゴミしかないようだし、風呂場には何もなくトイレも珈琲缶が数個転がっているだけでスッキリしていた。さすがにそこにまで書類や書籍を持ち込んだりはしていないようだった。この調子でいけば夕方には終わるだろう。
トトト
またあの音がした。
上階だと思っていたが、どうも寝室の方から聞こえる。敷きっぱなしだった布団を干してからすっかり広くなった空間には音の発生源は見当たらない。
「なんかさっきから音聞こえない?」
「ん?どんな音?」
「足音みたいな、ホラ、今聞こえた」
トトト ト
今度はミチにも聞こえたようだ。眉根をひそめて首を縮こまらせている。
トトトト トトト
何かの足音のようではあるが人にしては軽く、ペットにできるような動物にしては重い音。
「下の階の人が天井つついてるっぽい?」
「そうなのかなぁ」
極力大きな音を立てずに作業をしていたつもりだが動きまわっていた足音が響いて五月蠅くしていたかもしれない。申し訳ないことをした。
「だとしたら後で謝っておかないといけないね」
「あぁ…そうだよね。ごめんなさい…」
「いいよ」
寝室の床 ー 階下の人 ー に向かって謝罪をしたつもりだったが思わぬ返答があった。
ここは妖怪とヒトが共存する国。妖怪は概念の具現体であり、その妖怪それぞれの概念を理解する者にはその姿が見える。たとえば学校の女子トイレにおかっぱの女の子がいるとみんなが信じていればそこに”おかっぱの女の子”という妖怪が生まれる。
この国には妖怪がたくさんいる。管鈴をはじめとしたいろいろな物事に妖怪の力が働いているものがあり、妖怪という存在に対しての認識と理解を二人は生まれながらの環境を通して深く持っている。そして寄常もミチも普段から妖怪と接している。つまりふたりは妖怪ならばはっきりと見ることができる。
しかし思わぬものがそこにいて、それが見えない場合、それは一体何なのだろうか。
「あぁ。あぁ。弁当殻はこの袋ね。お箸は燃えるゴミの袋」
寄常はなんとか恐怖に耐えた。妖怪が見えるとはいえ、彼らは様々性質が異なる。ヒトを驚かせることを生業としている妖怪もいて、以前研究学生の調査に同行した際、1時間に1度くらいの間隔で驚かせてくる化け狸に会ったことがあった。今回もそういった類だろう。人を驚かすために人がいる場所に出てくるが、リンドウやセイランといった夜でも明るくて人が多すぎる都会にはなかなか出てこない。人間が化ける妖怪に慣れてしまうからだ。しかしそれが意外と盲点となる。案の定見えない存在に耐性がないミチはヒクヒクと喉を鳴らし過呼吸を引き起こしていた。
「ミチ!!」
新品のビニル袋を短めに持ってミチの口元にあてた。
「ミチ、息を吐いて。吸いすぎてるから苦しいんだよ。ゆっくり、吐いて。大丈夫、狸だよ、あたし見たことある」
引き攣り青ざめた顔でひぃひぃと吃逆のような呼吸をするミチを少し落ち着かせるとすぐに外に連れ出した。
寄常ちゃんのお仕事②
9月。蒸し暑い日が未だ続く季節だが今日は曇っていて比較的涼しい。
トウジの部屋に着いた寄常は扉の前で軍手をはめながら思った。
それでも少し動けば汗がにじんでくる。この現場はできればこれきりにしたいところだった。
研究学生であるトウジの部屋には重要な書籍が多く存在している。
“ギリギリ持ち出し可能”というような年代物の書籍だというのに乱雑に置いてあるため、こちらは細心の注意を払わないといけない。
「貸出期間が過ぎている本も数冊あるはずなので、それは学院の図書館に返却をお願いしたい」と昨日学生課から通知があった。
もちろん掃除の仕事外の話になるので追加で依頼料を貰えることになっている。参考資料として使う時にだけ借りて、すぐに返却していれば学院側も余計な勘定をすることもなかっただろうのに、手元に置いておきたがるトウジの性格を誰も御することができないために大図書館の司書たちは学園の経理係とのやり取りに苦労をしているようだった。
「じゃ、開けるよ」
ミチが合鍵を使って魔窟の扉を開いた。
まず二人を襲ったのは異臭。夏場に放置した生ごみが腐りきった吐き気を促す匂いだ。
マスクなど容易く通り抜けて鼻を潰しにかかっている。
「これは…」
そこから言葉が出ない。初めての”本物のゴミ屋敷”だった。
思わず扉の外で匂いから逃れるように壁に張り付きミチと目を合わせた。よく外廊下に漏れ出さなかったものだ。
「まずは導線確保のために廊下を片付ける。それから奥に入って粗大ごみがあるなら運び出して、もちろん生ゴミ処分も同時進行ね」
「わかった。…よかった。このフロアの人全員出払ってて」
まさに。こうして扉を開け放ったままにしておけるのも、この階に誰もいないことを確認しているからだ。そうでなければ強烈な匂いでショック死した隣人の遺品整理に駆り出されることになるだろう。
寄常はマスクの鼻に当たるワイヤーをきつく押さえつけた。
玄関は比較的綺麗だった。
相変わらず紙屑となり果てた書類が散乱しているが、下駄や草履の存在が確認できる。以前は本に埋もれていて、まず裸足で廊下に出てから草履を発掘する毎日だったとトウジが言っていた。
「そういえば、今日トウジさんは?」
「研究室に預けてきた。管鈴とお財布持ってるから後は研究室の人が何とかしてくれるでしょ」
橙色の薄羽織の袖をたすきで纏める動作は素早く、もうこれまでに何度もこの部屋を片付けている様子がうかがえた。
当時高等学院生だったミチにとって研究学院生のトウジはとても魅力的に映っていた。
年上であることもさながら、黙々と読書をしている姿が落ち着いて見えてミチの周囲にいない人種だったようだ。
文化祭で喫茶店をしていた寄常たちの教室に休憩をしに来た客。その程度の関わりだったがミチはぐいぐい押して交際までこじつけていた。
寄常は大きなビニル袋を数枚広げてあちこちに配置しながら奥に進んだ。
居間に近づけば近づくほど異臭は強くなっていく。壁を這う黒い昆虫は本も食べてしまう。貸し出し中の書籍の被害が少ないうちに片づけてしまわないと司書たちの胃に穴が開いてしまう。
「セイランのゴミの分別知ってる?一応一覧表もらって来たんだけど」
懐から4つ折りにされたカラー印刷の紙を取り出す。ふたりが住んでいるリンドウとセイランでは分別の仕方も収集日も違い混乱を招く。確認しておかないと大量に出たゴミをリンドウまで持ち帰ることになりかねない。掃除の依頼を受けているからには適当に捨てるわけにはいかない。これは本業にしようと思っている寄常の矜持である。
「大まかな分け方は外のゴミ捨て場に書いてるのを見たから知ってるけど、どっちかわからないっていうのがたまにあるなぁ」
「そうだね。全く分からないものが出てきたら別口で袋にまとめておいて、あとで役所に確認して捨てるようにしよう」
ゴミ収集の業者は必要ない程度のゴミの量だろうということで、すべて自分たちで捨てに行くことになっていた。丁度今日が燃えるゴミの収集日だ。建物共同のゴミ捨て場に置いていけば、残りは荷車ひとつで収まるだろう。
玄関から入って正面が居間、左側の扉はお風呂、右側の扉はトイレ。その短い廊下は本と細かいゴミと大量の衣類で埋め尽くされている。帰宅すると同時に外出着を脱ぎ棄てそのまま居間に向かって行った構図が見える。
ゴミを搬出する導線確保が優先事項のため、とにかく衣類を透明のビニル袋に纏めてしまうことにした。必要不必要は本人にしかわからない。1か月前までミチが掃除していたというなら着れないようなボロはないだろうが、廊下を埋め尽くすほどの量の衣類はこれを機に減らしてスッキリさせた方がいいとは思う。お洒落な衣装持ちなのかと思いきや、洗濯が面倒だからと学院内の売店で新しいものを買うのが習慣になっているのだという。たしかに拾ってみれば細身のトウジにしては大きすぎるシャツが多く、印刷されている模様には全て「セイラン学院美術科」と小さく書かれていた。
「この服、1か月分あるのかぁ…」
風呂へ続く扉を見ながらミチがつぶやく。扉の向こうには備え付けの洗濯機がある。一体何回に分けて洗濯すればいいのか。そう思っているのだろう。
衣類は1枚退けるとかなりの面積の床が見えて来る。居間の掃除に取り掛かるのにそう時間はかからなかった。
寄常ちゃんのお仕事①
「キツネちゃん!お母さんお買い物行ってくるから!」
「はーい!」
カランという下駄の音とともに玄関先から声をかけられ奥からひょっこり顔を出した茜色の羽織の少女は比良坂 寄常(ヒラサカ キツネ)18歳。高等学院を卒業して半年、職業は今のところ家事手伝いである。
独自の文化と外来の文化が入り混じる”ヤマシロ国”
その首都である”リンドウ”の下町にあるお面職人の家の子だ。
代々お面を作っている家系であり、父で19代目。
寄常の兄が20代目となるがあまり器用ではなく、まだまだ修行中の身。
祖父のお茶請け話の欠片を組み合わせるとお面を天皇家に献上しているらしいのだが、毎日せっせとこさえなければならないほど、お面が必要な事情が寄常にはわからなかった。
祖父も父も「俺たちは業者に渡すだけだから理由なんてわからん」と言うだけで、謎は深まるばかり。
以前、工房に入って件のお面を見せてもらったことがあるが、全体が黒くのっぺりとした面白みのないものだったと記憶している。
コロコロコロ
遠くで管鈴(かんりん)の音がした。
食器を洗う手を止め、ちゃぶ台に置いていた管鈴を覗き込む。
管鈴はここ15年ほどで発達した通信技術のひとつだ。
手のひら大の竹筒に妖怪”管狐”が宿っていて、それを高速でやり取りすることにより遠くにいる人と会話をすることができる。
郵便の仕事を妖怪にさせることによって実現した技術ということである。
世間では妖怪も労働をしている。知性のある大妖怪と呼ばれるモノは会社を立ち上げ、菅鈴の通信料も管狐の派遣会社に払うことになっている。
管鈴の通知は友人のミチからのようだ。
件名:お願いします!
本文:ごめん!また掃除手伝ってくれない?トウジのやつ研究の為だからって何でもかんでも持って帰って広げたまま放置してる上に、自炊しないから弁当殻とかの数がヤバいの!ゴミ屋敷なの!!!私1ヶ月くらい実家に戻ってて、その間に論文作成期間に入ったらしくて!
悲痛な叫びが聞こえてくるような文章だ。
ミチは高等学院時代の文化祭で出会った研究学院生と交際している。
彼、トウジはどうやら研究に没頭するとソレ以外何もしなくなるらしく、放っておくと浮浪者のようになる。
件名:依頼ありがとう
本文:トウジさん一応食事はするようになったんだね。前は食べずにずっと研究してたみたいだからすごい進歩だよ!ミチの努力の成果だね!日時を教えてくれたら行くよー。
依頼。
通知は友人からで「お手伝い」という書き方をされているが、これは寄常にとって立派な依頼である。
8か月前、ミチがトウジと付き合い始めた頃「大掃除を手伝ってくれ」という通知がきた。
少しでも人手が必要だというので“夕飯を奢る”という条件で了承し、電車に乗って“セイラン研究学院都市”まで出向いた。結局都合がついたのは寄常ひとりだけだったらしく、駅前で合流したミチに平謝りされ、人生で初めて周りに白い目で見られるという体験をした。
彼の住まいは研究学院が借りている物件の3階の5戸あるうちのちょうど真ん中の部屋。
ゴム底の下駄を鳴らして登った階段の先にはヒヤリとした空気の廊下が伸びていた。
休日ではあるが、住人の大半が現地調査などで外出しているか部屋に引きこもって論文を漁っているかなので人気があまり感じられない。
いかにも薄そうな白い壁が無機質な雰囲気をより一層際立たせているように思う。
部屋の前まで行くと廊下に面している窓からゴミが積まれているのが見えた。
窓の向こう側から張り付いて見える茶封筒の模様に見覚えがあった。これは奨学金制度の書類送付に使われるものだ。寄常とは違い大学院に進学したミチがため息とともにその封筒を睨みつけていたのを覚えている。
それにしても、と寄常は鼻をスンとならした。
ゴミ屋敷だと言われて意気込んでいたが異臭などがない。
後に聞いた話だが、両隣に住んでいる学院生も窓から見える惨状は気持ち悪いが、とくに匂いもしないし虫が飛んできたりすることもないのでトウジに「掃除しろ」と注意はしても引っ越す等ということは考えてなかったと言っていたらしい。
もしやと思いミチに「彼は食事をしているのか」と聞くと、失礼な、とでも言いたそうにいぶかしげな顔をした。かと思えばそのまま考え込むように動きを止め、次の瞬間には部屋の呼び鈴を連打していた。
扉の奥から「カギは開いている」という声が聞こえてホッとしたのも束の間、勢いよく開けるとどこからか本が数冊落ちてきた。足の踏み場もないほどの書類や本。壁だと思っていたものも本。学院の図書館をひっくり返してもこうはならないだろう。
衝撃の開幕に肝を冷やしていた寄常をよそにミチは下駄を履いたままズカズカと室内に上がり込み、骨のような体になっても黙々と筆を握り続ける彼を引きずり出した。
子供向けの科学雑誌に描かれていた宇宙人のようだと寄常は思った。顎が細くなってしまって頭が大きく見える。唯一の違いはいつから剃っていないのか、まばらに生えた無精ひげだけだろう。
銀縁メガネの奥にある目玉をキョロキョロさせている彼にミチがお金だけを持たせて食堂へ追いやった頃、ようやっと寄常は居間へと続く廊下の中央でハマって動けなくなった足を引き抜くことに成功した。
「居ても邪魔になるだけだろうしね」と呆れた表情のミチが足元に転がっていた缶を拾いながら言った。
それからミチは時間をかけて彼に食事を摂る習慣をつけたようだ。
定期的な掃除もミチが頑張っていた。どうやらトウジは元々片づけることが苦手な人だったようだ。
「育成遊戯(ゲーム)をしているみたいだわ」と言うミチの苦笑いを見たのは3月程前のことだっただろうか。
その間に寄常は「あのゴミ屋敷を一瞬にして消した女学生」という噂によって学院側に雇われ、不定期ではあるが掃除の仕事を受けることになった。
祖母の知恵袋を織り交ぜた会話に付き合うことによって手に入れた掃除術のお陰でゴミ屋敷の掃除は半日ほどで終わったのだが、その激変ぶりを見た調査帰りの隣人が感動のあまり至る所で大袈裟に話したらしい。
その噂はどんどん尾ひれが付けられ学院内の学生課にも広がり、どうやって調べたのかセイランからのぼり電車で4駅先のリンドウにある高等学院の学生であった寄常に直接打診があったのだ。
とはいえアレほどのゴミ屋敷掃除はその時以来で、セイラン大学院付属校(義務学院、高等学院、大学院、研究学院)からの依頼の大抵は「彼女が来るから綺麗にしたい」や「寮を退所するから手伝って」などの個人的な依頼だった。
学生から学生課に掃除の依頼申請をし、その中から真っ当な理由のものを厳選し、学生課から寄常に連絡をするという流れになっているのだとミチに聞いたが、あまり”厳選”されているようには思えなかった。
稀に調査に同行して周辺の草刈りや伐採をするという依頼もあったが、基本的に身体を動かすことも掃除も好きだったので楽しく依頼をこなしていた。
直接学院に雇われての仕事であるため依頼料が発生し、それが結構な額になる。
「職業は?」と聞かれると、まだ「家事手伝いです」としか答えられない程度の不定期かつ不安定な収入だが、もう少し手を広げてみて本業にするのも悪くないかもと思っている。
最近は屋号を何にしようかと妄想していた。
送信者:ミチ
本文:土曜の朝からとかでも大丈夫?いけそうなら学院に連絡つけとくけど。
送信者:寄常
本文:大丈夫!今週の土曜日の9時くらいに着くようにするよ!連絡お願いしますm(_ _)m
送信者:ミチ
本文:了解!
通知のやり取りを終えた管鈴の管狐が得意げな顔で寄常にすり寄ってきた。褒美の金平糖をねだっているのだ。
通信会社に料金を払っているから別口であげる必要はないのだが、彼らも生き物だ。楽しみの1つくらいは欲しいだろう。
硝子戸の食器棚にしまってある小瓶を取り出して二粒を管狐に渡し、一粒を自分の口に放り込む。
管狐はコリコリと数回かじって満足すると残りを大事に抱えて竹筒の中へと戻っていった。
「さて!」
寄常は気合いを入れて立ち上がった。
今日は木曜日。今日明日で大掃除の準備をしておかなければ。
1か月間のゴミということだが、ゴミ引き取りの業者の手配は必要だろうか。
必要事項を頭のなかで並べ立てながら食器洗いに戻った。